※以下、
在日チュニジア大使館より引用(2004年12月現在)
■チュニジアの歴史
チュニジアは、地中海沿岸諸国の中心部に位置し、アラブ、アフリカ、ヨーロッパ諸国の交差点にあります。太古の昔からチュニジア社会は常に海外に目を向けており、外国に対して開放的で、種々の文化的な影響を受け続けてきました。
チュニジア人は紀元前12世紀から、地中海沿岸の国々との貿易を通じ、相互の文化に影響を及ぼしあってきました。紀元前814年に建設された偉大な都市国家カルタゴは、その商業の大きな繁栄のために勢力を拡大しつつあったローマ帝国の標的とされ、紀元前2世紀、カルタゴは滅亡、700年に及ぶローマ支配の到来をむかえ、チュニジアはローマの穀倉庫となりました。チュニジアに点在するすばらしい遺跡は、ローマ帝国におけるチュニジアの突き出した地位を証明するものです。
西暦5 - 6世紀、チュニジアは、ローマ帝国からヴァンダル族、さらに下ってビザンチン(東ローマ帝国)の支配下へと移行します。西暦7世紀にはイスラム教がチュニジアに達し、ケロウアン(Kairouan)の街は宗教生活の中心地となりました。この街にはイスラムで最も古く、神聖なモスクの遺跡の一つがあります。その後数世紀で、5つの民族と、オスマン朝がチュニジアのイスラムの遺産を豊かなものにしていきました。この時代の注目点は、チュニスでの大モスクの建設や、歴史家であり、かつ現代社会学の父で、今日でも学問に影響力をもつ研究を残したイブン・カルドゥン(Ibn Khaldoun)など偉大な思想家の活躍の場となったゼイトゥーナのイスラム大学の設立、スペインからのアンダルシア系イスラム教徒の移民の開始などがあります。
19世紀までチュニジアはベイ(オスマンの高位の人々)によるオスマン朝のもとに統治され、ケイレディン・バシャ(将軍)がその啓蒙改革にあたり、チュニジアはアラブ諸国で初めて憲法を発布し奴隷制度を廃止した国となりました。しかしその一方で、ベイの悪習や外国の妨害による経済的な問題が国政の不安定化を煽ったため、1881年、フランスがチュニジアを保護領とする宣言を発布しますが、それに対して国内に強い反植民地運動が生まれました。1920年、チュニジアの国粋主義者によって自由立憲党(Destour、デストゥール党)が結成され、1934年にはそこから分離したネオ・デストゥール党が、最終的にチュニジアの独立を達成する影の推進力となりました。長期にわたって闘争のすえ、ついに1956年3月20日、チュニジアは独立国となりました。
1957年7月25日、チュニジアは共和制を宣言し、ハビブ・ブルギベ(Habib Bourguiba)が初代大統領に就任、1959年6月1日には独立後、初めての憲法が採択されました。
1987年11月7日、ズィン・エル・アビディン・ベン・アリ(Zine El Abidine Ben Ali)がチュニジア共和国の2代目の大統領に就任、チュニジアに新しい時代が訪れました。当時アリは首相でしたが、ブルギベ大統領が健康上の理由で任務遂行不可能となると、合憲的に後任者として任命され、政権を担いました。
■文化遺産
アフリカ大陸中で、これほど多くの羨望の的になった国は他にはないでしょう。チュニジアの都市の大部分は、古きよきフェニキアの商業の地、ギリシャ、ローマ都市の遺産であり、また更には、アラブ世界の旧市街でもあります。皇帝の全盛時代、そして文明の栄華の訛<として円形劇場、共同浴場、コロセオム、オデオンなどの遺跡があります。しかし、この輝かしい古代遺跡以?に、アラビアの建築家達も卓越した芸術品の数々を残しています。その一例として、ケルアンの大回教寺院(グランドモスク@が挙げられます。
ユティックは、BC1100年の最古の商業地でその後ローマの都市となりました。共同浴場ではモザイクの床を見ることができます。
ドゥッガの街は誇り高く丘の?にそびえたっています。ジュピタ・ミネルバへ敬意を表して建立された神殿の周りには、ポエニ人の?廟と共に集会所(フォーラム@があり、少し離れたところには公共浴場と劇場の遺跡があります。
エル・ジェムのコロッセウムはローマのそれに匹敵し、3万5千人の観客を収容できます。宮殿のモザイクはギリシャ神ディオニソスやバッカスへ献素されました。
チュニジアには、エルジェムのコロッセウム、カルタゴ遺跡、ケルアンのグランドモスクなどのユネスコが指定した7つの世界遺産があります。