※以下、
在日イタリア大使館より引用(2004年12月現在)
■イタリア大使館の歴史
イタリアと日本の公式な国交が開かれたのは、イタリア海軍のコルベット艦が横浜港に入港した1866年5月27日にさかのぼります。 同年8月25日、日伊友好通商条約が締結されました。
はじめてイタリア公使館が開かれたのはどこだったのか、確かな記録は残っていません。 しかし、1872年に開かれた公使館は東京港区虎ノ門の南西に2310坪の敷地を構えていました。その後30年間のうちに公使館は増築を重ねましたが、火事や台風に見舞われ大きな被害を受けました。
本館のメイン部分は1919年の火事で焼け落ち、イタリア政府は1922年、皇居に程近い紀尾井町の前オーストリア-ハンガリー大使館の所有権を得ました。ところが、この建物も1923年9月1日の関東大震災により崩壊したため、以前の虎ノ門の土地がイタリア政府に返還されました。その後まもなく、再開発のため、日本政府による土地の交換の申し出があり、長い交渉の結果 、三田にあった松方正義公爵の旧邸が1928年12月にイタリア政府に提供されました。
1929年3月の合意により、イタリア政府は6000坪を超える土地の所有権を得、大使館は1932年3月に移転されました。
第二次世界大戦中、1945年の大空襲で大使公邸が全焼し、公文書館も大きな被害を受けました。新しい建物は1959年、イタリア人建築家、ピエール・フランチェスコ・ボルゲーゼにより日本の建築家、Murata Masachikaの協力を得て設計されました。最終的な設計案が認められたのは1963年、新大使館が完成したのは1965年です。
本館はL字型で2つの別館とつながっています。別館の一つでは大使が執務を行い、もう一方をさまざまな行事に使用しています。メインエントランスの中央には鉄の装飾があり、その両側に中庭があります。この中庭は本館と前庭を区切る形になっています。メインエントランスを入ると、前庭に向かって一面 がガラス張りとなっており、まるで緑の庭の中にいるような錯覚を覚えます。本館は調和のとれた4つのホールから成り、このうちの3つが中央に並んでいます、東側がメインサロン、次いでダイニングルーム、西側は数段階段を下がったところに大広間があります。この広間の天井は吹き抜けになっており、ゆったりとした空間になっています。大広間に続いて、建物のL字型の短い部分が庭に突き出した「湖の間」です。三方に窓があり、外の眺めを楽しむことができます。
床は無地一色のカーペットかイタリア大理石とし、木の壁の他、無地の壁紙も使用しています。また、窓やドアの代わりにガラス窓、スライドドアを使用し、シンプルな空間を作り出し、永遠の文明の歩みを刻む歴史的な美術品がこの空間を飾っています。 これらの美術品はローマ時代、ルネッサンス期、近代の3つの時代にそれぞれ区分されます。
ローマ時代と初期キリスト教時代の大理石の調度品は最も古い時代のもので、その中には両側がくぼんだプリズム型の大理石の壷(2世紀)や大きな大理石の水盤(8-9世紀)があります。また、イストリア特産の石に彫刻を施したポンプ(13世紀)はさまざまなキリスト教のモチーフやシンボルを高度にデザイン化した作品です。
主な調度品は16世紀から17世紀のルネッサンス期のもので、特徴のあるメインダイニングルームの大きな食器棚は、この部屋と完璧に調和しています。その他、館内のあちこちにおかれている戸棚やテーブルもこの時代の家具です。漆仕上げが見事なバロック調のサイドボードと2台のテーブルはその100年後の時代のものです。このテーブルは組み合わせて1つの大テーブルとして使用することができます。
館内を飾るイタリアの巨匠による近代の絵画や彫刻はこのような雰囲気の中に自然に溶け込んでいます。有名な作品の中にはルチオ・フォンタナ(Lucio Fontana)の巨大な卵型をした彫刻「空間の概念(Spacial Concept)」(1964)、20世紀後半において最も有名な抽象画家、ジュリオ・トゥルカト(Julio Turcato)の「網線(Reticle)」(1972)、1965年、 ガストン・ノヴェッリ(Gaston Novelli) が亡くなる数ヶ月前に完成させた「Clandestine Ilarity」、そしてエンリコ・カステラーニ(Enrico Castellani)の実験的作品、「白・白(White on White)」(1966)があります。 その他、中央サロンのマントルピースの上に掲げられたアーナルド・ポモドーロ(Arnaldo Pomodoro)の巨大なブロンズの作品は周囲の16世紀の家具とも違和感がありません。このパネル作品が光を反射すると、あたかも生物が呼吸しているかのようです。1967年のジオ・ポモドーロ(Gio Pomodoro)の大理石のレリーフは大広間のマントルピースの近くに飾られています。 これらの素晴らしい芸術作品はアンティークの家具とともに60年代の調和のとれた美的センスを感じさせます。
イタリア大使館の庭は松平隠岐守の屋敷のあったところで、東京でも有数の歴史を持つ洗練された庭園です。樹齢何百年もの木々が、この庭の造園が17世紀にさかのぼることを伝えています。沢庵和尚の設計になるという伝承があり、典型的な日本庭園のたたずまいを保っています。小さな築山の上のお宮に造営当時の面 影が残ります。 つつじ、gydrangea(スペルミス?)、秋の紅葉など、一年を通して季節の美しさを楽しむことができます。ここを住処にしている鳥たちの他、毎年、渡り鳥が訪れます。
江戸時代、松平隠岐守の屋敷の庭で、ある有名な歴史的事件が起こりました。「忠臣蔵」の歌舞伎にもなった、かの赤穂四十七士のうち10名が1703年2月4日、この庭で命を絶ったのです。切腹の場所は今では池の底になり、その土は池の背後にある築山に使われています。1939年、イタリア語と日本語の碑文を彫った石碑が築山の上に建てられ、往時を偲ぶよすがとなっています。
徳川幕府が倒れた後、松平隠岐守の屋敷は明治の大政治家、松方正義公爵邸となりました。松方は多くの子供がいました。この屋敷で育った息子のうち、巖は十五銀行の創設者となり、幸次郎は松方コレクションを創設、そして三郎は日本の山岳スポーツの先駈けとなりました。第一次大戦後、松方邸は十五銀行に譲渡され、その後イタリア大使館となったのです。