※以下、
ミャンマー政府/駐日ミャンマー大使館より引用(2004年12月現在)
■国土
ミャンマーは、国土面積67.7万平方キロと東南アジア大陸部では最大の面積を誇る。北は中国雲南省国境から東はラオスに接し、南はマレー半島まで伸びている。バングラデシュ、インド、中華人民共和国、ラオス、タイの5国と国境を接し、中でも中国とは約1,600km、インドとは約1,000kmの長い国境線を有する。海岸線の総延長は2,832q。 南北2,090q、東西925qと南北に長い国である。面積は日本の約1.8倍、ベトナムの約2倍。イギリスとフランスの合計とほぼ同じである。
■気候
熱帯モンスーン気候に属し、概して年中気温は高い。季節は暑季(3月から5月)、乾季(11月から2月)、雨季(6月から10月)の3シーズンである。年間降雨量は海岸部の5,000o以上から中央部乾燥地帯の750o以下までかなりのばらつきがある。平均気温は沿岸部やデルタ地帯は32度、低地中央部は21度であり首都ヤンゴンは年平均27.3度、降水量平均2,530oである
■教育
初等教育は満5才から小学校(5年間)、中学校(4年間)、高等学校は2年間で、高等教育は短大、士官学校、専門学校、大学がある。有名大学にはヤンゴン大学、マンダレー大学があり、医学部や工学部などの専門分野の人気が高い。特に英語教育や情報教育に力を入れており、小学2年から英語の授業があり、各小学校には数台のコンピューターが設置されている。識字率は約87.9%(1990年)であり、東南アジアではタイ、ベトナムに次いで高い。
■国民性
勤勉、技術習得は熱心で、性格は温和、謙虚である。対日感情は良好であり、日本人には好意的に接する。日本とは比較にならないほど宗教がミャンマー人の生活に浸透している。
■ミャンマーと日本との歴史的関係
ミャンマーは親日的な国であると紹介されている。そのことを理解するためには、両国の歴史的な深い関係を見ておく必要がある。
英国統治下の植民地時代、最初の民族運動の契機となったのは、日露戦争での日本の勝利であった。当時、白人に勝てるアジアの国があることがミャンマーの人々を奮い立たせた。当時日本に滞在していたウーオッタマ僧正は、帰国後英国からの独立を目指して運動を開始したのが青年仏教協会(YMBA)の反英独立運動である。
その後、1939年、英国植民地化からの独立を目指す独立会派「タキン党」の書記長であったアウンサン氏らは、インド国民会派、中国国民党、共産党両党、日本のいずれかの支援を取り付けるべくミャンマーを脱して、中国のアモイに向かった。
当時、日本軍は泥沼化する中国戦線で援蒋ルートを分断しようと考え、秘密工作部隊が活動を進めていた。アモイ市内で日本の特務機関員に発見されたアウンサン氏は、羽田に到着した。日本は陸海軍協力して対ミャンマー工作を進めることとなり、参謀本部直属の「南機関」が正式に発足した。
南機関は鈴木大佐の指揮の元、独立運動の中核となるミャンマー青年30人を日本に集め武装蜂起に必要な軍事訓練を行い、資金と武器を与えた。このときの30人が「30人の志士」と呼ばれ、後のミャンマーで軍事、政治、経済界でリーダーとなった人々である。
このときの訓練は、海南島、台湾で進められた。1941年12月8日の太平洋戦争勃発時にはバンコク周辺で待機していたが、直ちにビルマ独立義勇軍の募兵が始まり、28日には宣誓式が行われた。ミャンマーの国軍は、この日を持って創設記念日としている。
ビルマ独立義勇軍は日本軍とともにミャンマーに侵攻し、翌年3月28日にラングーン(現ヤンゴン)を占領した。その後も、民衆の歓喜に迎えられ各地で義勇兵を集めながら全土を解放した。
ビルマ独立義勇軍はその後、ビルマ防衛軍、ビルマ国軍と改称する一方で、軍幹部養成機関として士官学校を設立した。教員は全て日本将校と下士官がつとめ、優秀な生徒は日本の士官学校へ留学する制度とした。ネウィン政権下をも含めて、現在の軍事政権の指導者たちの大半はこの士官学校卒業生である。
ビルマ全土を解放した後、ミャンマーの完全独立を認めるかどうかで南機関と現地進駐軍との間で意見の食い違いがあった。南機関が即時独立を主張したのに対して、進駐軍はそれを認めなかった。1942年に南機関は事実上解体され、1943年8月にやっと認めた独立も、初代首相バモー、国防相アウンサン体制で日本軍の監督下の元で名目だけの独立を与えたに過ぎなかった。結果として当初のアウンサン氏との約束を反故にしたのであった。これでは、英国の変わりに日本が居座ったのと何ら変わりがなかった。加えて、当時のミャンマーにおける日本軍は、日本軍憲兵の横暴さと野蛮な行為だけが目立つような状況であったらしい。
アウンサン氏らは、完全独立のための抗日戦線として反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成し、日本軍に対して全面攻撃に出る。折しも、インドのインパール戦線で退廃し、撤退のときであり、FFPFLは全面勝利を獲得し、その後の完全独立を果たすこととなった。
時を経て、1981年1月4日、第33回独立記念日に当時のミャンマー政府は7人の日本人に対して、「アウンサン勲章」を授けた。それまでこの勲章授与はミャンマー人を含めて皆無であったから、両国関係者を驚かせた。受賞者7人全員は、鈴木大佐の未亡人を含む元南機関の関係者だった。
現在でもミャンマー国軍は軍隊の組織からしてほぼ完全に旧日本軍を踏襲している。これは、まさしく日本が基礎固めをしたということがあったからであろう。
ミャンマーには多くの親日家がいる。ミャンマーに行くと日本人のほとんど全員がミャンマーが好きになる。これは、国民性に多くの共通点を感じるからでもあるし、また歴史的なつながりが深いからだともいえる。しかしながら、これは日本が歴史的にミャンマーに対して良いことを行ってきたからではなく、お互いの理解の上に成り立っている事を忘れてはならない。